はじめに:なぜ研究基盤の見直しが必要なのか
ライフサイエンス研究は、医療、創薬、バイオ産業などを支える重要な研究分野です(ライフサイエンス研究支援基盤の今後の在り方について-p.3)。近年は、AIやデータサイエンスの進展によって、研究の進め方そのものが変わりつつあります。研究者が立てた仮説を実験で検証する従来型の研究に加え、大規模なデータを解析し、そこから新たな仮説を生み出す「データ駆動型研究」が広がっています(2.ライフサイエンス研究基盤を巡る国内外の状況-p.4)。AIは、データ解析やシミュレーションだけでなく、実験の自動化・自律化、研究テーマや仮説の生成にも活用され始めています。これに対応するには、生物資源、研究データ、先端機器を個別に整備するだけでは不十分です。データを横断的に活用し、AIによる予測を実験で検証できる環境が必要になります(2.ライフサイエンス研究基盤を巡る国内外の状況-p.4)。文部科学省の科学技術・学術審議会に設置されたライフサイエンス委員会の作業部会は、2026年7月31日付の取りまとめ「ライフサイエンス研究支援基盤の今後の在り方について」で、NBRP、NLDP、BINDSを相互に連携させ、AIとデータを活用できる研究基盤へ発展させる方向性を示しました(ライフサイエンス研究支援基盤の今後の在り方について-p.1、4.今後の方向性について(提言)-p.12)。
なお、この資料は今後の方向性を示す提言であり、次期事業の予算、利用料金、組織体制などを決定したものではありません(4.今後の方向性について(提言)-p.12)。
AI時代に求められる「AI-ready」な研究基盤
AIは、研究データの解析、シミュレーション、実験の自動化・自律化、研究テーマや仮説の生成など、さまざまな場面で活用されています(2.ライフサイエンス研究基盤を巡る国内外の状況-p.4)。タンパク質構造予測に代表される成果に加え、タンパク質やゲノムを対象とした基盤モデル、複数の生物学的情報を統合する仮想細胞モデルなどの構想も進められています。こうした技術は、創薬や個別化医療への応用が期待されています(2.ライフサイエンス研究基盤を巡る国内外の状況-p.4)。
一方、AIを活用するには、単にデータがデジタル化されているだけでは足りません。データの意味、出所、品質、利用条件などが整理され、異なるデータベース間で連携できる必要があります(2.ライフサイエンス研究基盤を巡る国内外の状況-p.4)。
このように、AIが学習・検索・統合・解析しやすいように整えられたデータや環境を、ここでは「AI-ready」と呼びます。資料では、次のような要素が重要だとされています(2.ライフサイエンス研究基盤を巡る国内外の状況-p.4)。
- 高品質で十分な量の研究データ
- データの意味や出所を示すメタデータ
- データの標準化と相互運用性
- 分野をまたいだデータ連携
- AIによる学習・推論に利用できる環境
- データの公開範囲や利用許諾を管理する仕組み
ただし、AIだけでライフサイエンス研究が完結するわけではありません。AIが示した予測やモデルは、最終的に生体を用いた実験などで検証する必要があります。資料でも、AIと生体実験は相互に補完し合う関係であり、高品質なバイオリソースの重要性が一層高まっていると指摘しています(2.ライフサイエンス研究基盤を巡る国内外の状況-p.5)。
そのため、コンピューター上で解析や予測を行う「Dry」の研究と、実験を中心とする「Wet」の研究を組み合わせることが重要になります(2.ライフサイエンス研究基盤を巡る国内外の状況-p.4)。
NBRP・NLDP・BINDSは何を担っているのか
今回の提言では、性格の異なる3つの研究基盤を連携させる方向性が示されています(3.我が国におけるこれまでの主な取組における成果と課題-p.7、4.今後の方向性について(提言)-p.12)。
| 事業 | 主な役割 | 主な実績 |
| NBRP | 実験動植物や微生物などのバイオリソースを収集・保存・提供 | 令和6年度終了時点で約468万6,000件を保存(3.我が国におけるこれまでの主な取組における成果と課題-p.8) |
| NLDP | 分散するライフサイエンス研究データベースを連携・統合 | 統合ポータルやRDFなどのデータ連携基盤を整備(3.我が国におけるこれまでの主な取組における成果と課題-p.9) |
| BINDS | 先端機器と専門技術によって生命科学・創薬研究を支援 | 令和8年5月時点で支援実施・予定4,052件、支援による発表論文数3,625件、創薬シーズ327件(3.我が国におけるこれまでの主な取組における成果と課題-p.10) |
NBRP・NLDPは、文部科学省の「ライフサイエンス研究基盤整備事業」に含まれる事業です。一方、BINDSは、国立研究開発法人日本医療研究開発機構(AMED)のファンディングエージェンシー機能の下で実施されています(1.はじめに-p.3、3.我が国におけるこれまでの主な取組における成果と課題-p.10)。
NBRP:研究に使う生物資源を支える
NBRPは、2002年度(平成14年度)から実施されている事業です。マウス、ショウジョウバエ、ゼブラフィッシュなどのモデル生物に加え、アサガオのような独自性の高いリソースも収集・保存・提供してきました(3.我が国におけるこれまでの主な取組における成果と課題-p.8)。資料によると、2024年度(令和6年度)終了時点で、保存数は約468万6,000件です。新規収集数は年間約3万2,000件、利用者数は年間約5,700件、整備されたリソースを活用した研究成果論文数は年間約2,600件とされています(3.我が国におけるこれまでの主な取組における成果と課題-p.8)。凍結保存などの保存技術や品質管理の高度化、ゲノム情報の付加によって、研究の再現性・信頼性の向上や、疾患研究・創薬研究への応用にも貢献してきました(3.我が国におけるこれまでの主な取組における成果と課題-p.8)。
NBRPの今後の方向性
提言では、世界標準のモデル生物だけでなく、日本発の独自性や地域性を持つ生物資源も戦略的に支援する方向性が示されています(4.今後の方向性について(提言)-p.13)。
また、野生由来生物や非モデル生物についても、特定の生命現象を解析するモデルとして活用できる可能性を踏まえ、整備を進めることが提案されています(4.今後の方向性について(提言)-p.13)。
今後は、生物個体の保存に加え、ゲノム情報、配列データ、メタデータを一体的に整備し、AI解析や国際共同研究に接続できる基盤へ高度化することが検討されます(4.今後の方向性について(提言)-p.13)。
提供件数が少ないリソースであっても、いったん失われると再取得できない場合があります。そのため、利用件数だけで一律に評価するのではなく、重要性に応じて長期的に保存する仕組みも課題となっています(3.我が国におけるこれまでの主な取組における成果と課題-p.9、4.今後の方向性について(提言)-p.13)。
NLDP:分散する研究データをつなぐ
NLDPは、分散して存在するライフサイエンス研究データベースを連携・統合し、研究者がデータを効率的に利用できる環境を整備する事業です。2025年度(令和7年度)から、従来のライフサイエンスデータベース統合推進事業を基盤として再編・実施されています(3.我が国におけるこれまでの主な取組における成果と課題-p.9)。
これまでに、複数のデータ資源を横断的に検索・参照できる環境や、RDFを活用したデータ連携技術が整備されてきました(3.我が国におけるこれまでの主な取組における成果と課題-p.9)。
RDFは、データ同士の関係性を記述し、異なる形式の情報を機械的に連携しやすくする仕組みです。こうした技術によって、分散するデータを横断的に解析し、新たな知見の創出につなげることが期待されています(3.我が国におけるこれまでの主な取組における成果と課題-p.9)。
NLDPの今後の方向性
提言では、NLDPを従来の「データを蓄積・検索・統合するデータベース」から、AIモデルの開発・活用を支える「ナショナル・データプラットフォーム」へ発展させる方向性が示されています(4.今後の方向性について(提言)-p.13)。
具体的には、次のような機能の強化が検討されています。
- 知識グラフを活用したデータ統合
- メタデータの標準化
- データマネジメントプランの普及
- データ品質を管理するキュレーション体制
- AIによる学習、推論、仮説創出、検証の支援
- NBRPやBINDSとのデータ連携
知識グラフとは、データ同士の関係性を構造化して表現する仕組みです。例えば、遺伝子、タンパク質、疾患、薬剤などの関係を整理することで、異なるデータベースをまたいだ検索や推論がしやすくなります(4.今後の方向性について(提言)-p.13)。
また、欧州バイオインフォマティクス研究所(EBI)や米国国立生物工学情報センター(NCBI)のようなナショナルセンター機能も参考にしながら、日本に不足するデータや新たに整備すべき領域を戦略的に決める体制が求められています(4.今後の方向性について(提言)-p.14)。
BINDS:先端機器と専門技術で研究を支援する
BINDSは、2017年度(平成29年度)からAMEDのファンディングエージェンシー機能の下で実施されている事業です(3.我が国におけるこれまでの主な取組における成果と課題-p.10)。クライオ電子顕微鏡などの先端機器を共用するとともに、構造解析、発現・機能解析、インシリコ解析、ヒット化合物創出、薬効・安全性評価などを支援しています(3.我が国におけるこれまでの主な取組における成果と課題-p.10)。資料によると、2026年5月時点で、支援実施・予定数は累計4,052件、支援による発表論文数は3,625件、創薬シーズ件数は327件です。なお、支援数には実施済みのものだけでなく、実施予定のものも含まれます(3.我が国におけるこれまでの主な取組における成果と課題-p.10)。インシリコ解析とは、コンピューター上で行う解析や予測を指します。構造解析やオミクス解析と組み合わせることで、創薬標的の探索や化合物設計などへの活用が進められています(3.我が国におけるこれまでの主な取組における成果と課題-p.10)。
BINDSの今後の方向性
提言では、先端機器と、それらを高度に運用する専門人材を一体的に提供する理念を維持しながら、機器の最適配置や戦略的な導入・更新を進める方向性が示されています(4.今後の方向性について(提言)-p.14)。
資料の参考欄では、次期BINDSで期待される共用ファシリティ機能として、次の分野が挙げられています((参考)次期 BINDS 事業において期待される共用ファシリティ機能-p.16、【様々な医薬品開発の次世代モダリティに対応した研究支援技術基盤】-p.17)。
- タンパク質構造解析
- イメージング・画像解析
- 細胞解析・オミクス解析
- 生体・生体模倣評価・実験系
- ライブラリ・スクリーニング
- 医薬品合成化学・リード創出
- ADMET評価
- 核酸・タンパク質の設計・生産
ADMETは、薬物の吸収、分布、代謝、排泄、毒性を評価する研究領域です(【様々な医薬品開発の次世代モダリティに対応した研究支援技術基盤】-p.17)。
さらに、生成AIやインシリコ解析、Dry・Wet融合研究、電子実験ノートの活用、BINDSで創出された研究データを管理する部門の新設なども検討されています(4.今後の方向性について(提言)-p.14、(参考)次期 BINDS 事業において期待される共用ファシリティ機能-p.18)。
研究計画の相談から実験、データ解析までを一貫して支援するコンサルテーション機能や、複数の専門ユニットを組み合わせる横断的な支援も、提言で示された重要な方向性です((参考)次期 BINDS 事業において期待される共用ファシリティ機能-p.18)。
3事業に共通する課題
事業間の連携と司令塔機能
これまでの3事業は、それぞれ重要な役割を担ってきました。しかし、AIを活用した研究では、生物資源、実験データ、解析データ、先端機器を横断的に組み合わせる必要があります(3.我が国におけるこれまでの主な取組における成果と課題-p.7、4.今後の方向性について(提言)-p.12)。
そのため、各事業を個別に運用するだけでなく、事業間の司令塔機能を強化し、相互に連携・協力しながら一体的に機能させることが提言されています(4.今後の方向性について(提言)-p.12)。
研究者の相談を受け、NBRP、NLDP、BINDSのサービスを研究課題に応じて組み合わせるコンサルティング機能も、今後の検討課題です(4.今後の方向性について(提言)-p.12)。
高度な研究支援人材の不足
研究基盤を運用するには、機器を扱う技術者だけでなく、AI人材、データサイエンティスト、サイエンスキュレーター、コーディネーター、コンサルティング人材などが必要です(3.我が国におけるこれまでの主な取組における成果と課題-p.7)。
提言では、こうした人材を安定的に雇用し、専門性に応じた処遇やキャリアパスを整備することが重要だとしています(3.我が国におけるこれまでの主な取組における成果と課題-p.7、4.今後の方向性について(提言)-p.12)。
AIや高性能な機器を導入するだけでは、研究基盤は十分に機能しません。データの品質管理、研究計画の設計、機器の運用、解析結果の解釈を担う人材が不可欠です(3.我が国におけるこれまでの主な取組における成果と課題-p.7)。
維持・更新コストの増大
光熱水費、人件費、物件費、試薬費の高騰に加え、研究機器の修理・保守・更新や、計算資源の拡張にもコストがかかります(3.我が国におけるこれまでの主な取組における成果と課題-p.7、3.我が国におけるこれまでの主な取組における成果と課題-p.11)。
提言では、研究基盤を広く開かれたものとして維持するため、原則無償または低廉な価格での提供を基本としつつ、国による基盤的支援と、相応の受益者負担を組み合わせる仕組みが検討されています(4.今後の方向性について(提言)-p.12、4.今後の方向性について(提言)-p.15)。
ただし、どの機器やサービスが有料化の対象になるのか、アカデミアと企業で料金が異なるのかといった具体的な制度は、現時点で決まっていません(4.今後の方向性について(提言)-p.15)。
3事業が連携すると何が変わるのか
提言が実現した場合、研究者はNBRP、NLDP、BINDSの各サービスを個別に探すのではなく、研究課題に応じて複数の基盤を組み合わせた支援を受けられる可能性があります(4.今後の方向性について(提言)-p.12、(参考)次期 BINDS 事業において期待される共用ファシリティ機能-p.18)。
例えば、次のような研究の流れです。
- NBRPで整備された生物資源を用いて実験する
- BINDSの先端機器や専門技術で解析する
- 得られたデータをNLDPの基盤で統合・活用する
- AIで新たな仮説や予測を導き出す
- 再び実験で検証する
このように、「資源・データ・技術」を循環させ、AIによる予測と実験による検証を繰り返す研究環境が目指されています(4.今後の方向性について(提言)-p.12、4.今後の方向性について(提言)-p.13、4.今後の方向性について(提言)-p.14)。
研究者・企業への影響
研究者にとっては、先端機器や専門技術へのアクセスを維持しながら、研究計画、実験、データ解析まで相談できる体制が整備される可能性があります(4.今後の方向性について(提言)-p.14、(参考)次期 BINDS 事業において期待される共用ファシリティ機能-p.18)。
一方で、高額試薬や大型機器の維持費などについて、受益者負担が導入される可能性もあります。若手研究者や小規模な研究室が利用しにくくならないよう、料金や支援対象をどのように設計するかが課題になります(4.今後の方向性について(提言)-p.15)。
企業にとっては、アカデミアの研究シーズと企業ニーズをつなぐ産学連携機能や、次世代モダリティに対応した研究支援へのアクセスが利点となり得ます(4.今後の方向性について(提言)-p.15、(参考)次期 BINDS 事業において期待される共用ファシリティ機能-p.18)。
ただし、成果非公開での企業利用や、利用形態に応じた料金設定、データの利用許諾などについては、今後ルールを整備する必要があります(4.今後の方向性について(提言)-p.15)。
データについても、「何でも公開する」という意味ではありません。オープンサイエンスを進めながら、特許、個人情報、企業秘密、研究セキュリティ、データ主権などを考慮した「オープン・アンド・クローズ」の設計が求められます(2.ライフサイエンス研究基盤を巡る国内外の状況-p.4、4.今後の方向性について(提言)-p.12)。
まとめ:提言の焦点は連携をどう実装するか
今回の提言が示しているのは、NBRP、NLDP、BINDSを個別の事業として運用するだけでなく、一体的なライフサイエンス研究基盤として発展させる方向性です(4.今後の方向性について(提言)-p.12)。
- NBRPは、研究に必要な生物資源を収集・保存・提供する
- BINDSは、先端機器と専門技術によって実験・解析を支援する
- NLDPは、研究データを統合し、AIによる利活用を支える
3つの基盤を連携させることで、日本独自の生物資源や研究データを活用しながら、AIによる仮説創出と実験による検証を行き来できる研究環境が目指されています(4.今後の方向性について(提言)-p.12、4.今後の方向性について(提言)-p.13、4.今後の方向性について(提言)-p.14)。
今後の焦点は、次の4点です。
- 事業間の司令塔機能を誰が担うのか
- データ連携やメタデータ標準化をどう進めるのか
- 高度研究支援人材をどう確保し、処遇するのか
- 原則無償の利用環境と、機器・データを維持する費用をどう両立させるのか
なお、今回の資料はあくまで今後の方向性を示す提言です。次期NBRP・NLDP・BINDSの正式名称、事業期間、予算、採択機関、利用料金、相談窓口などは、今後公表される制度資料で確認する必要があります(1.はじめに-p.3、4.今後の方向性について(提言)-p.12)。

